講演録「イスラム国前史」田保寿一氏
2月21日、第71回草のアカデミー講演会「イスラム国前史」講師・田保寿一の講演録を公開します。
第71回草の実アカデミー2015年2月21日・イスラム国前史
田保寿一
◇人生の転機 イラク戦争
昨年は、草の実アカデミーでエジプトのクーデターを取材したビデオを上映させてもらいました。その後、あの取材を世に出そうとしましたが、なかなか意味が理解されないことがわかりました。草の実アカデミーで、好意的に議論してくださったことを思い返し、この会の貴重さを思い知りました。
さて昨年、エジプトのクーデターの問題と取り組んでいた時、イラクで、ISISが台頭し、イラク北の大都市モスルに現れたかと思うと、イラク軍が逃げ出し圧勝。南下してバグダッドの北にまでせまり、ISISは名前を変えて「イスラム国」とします。
それを見て、私はかつてイラクでした取材を思い出し、それが今なら役に立つかもしれないと思いました。
私にとって、イラク戦争は人生の転機でした。2003年、イラク戦争が始まった時、私はテレビ朝日の契約記者でしたが、イラクに取材に行くためテレビ局との契約を解除しました。
2004年4月、バグダッドのサドルシティーを取材中、車に引かれ脳挫傷となりました。帰国して一か月後の5月、大塚病院で入院中、バグダッドで一緒に取材していた橋田信介さん61歳と小川功太郎さん33歳がイラクで殺害されたというニュースが飛び込んできました。
その5か月後の10月、イラクを旅行していた香田証生さん24歳が、首を切られ殺害される様子を撮影したビデオがネットに公開されます。「統一と聖戦」という組織の宣伝のための映像でした。私は、こんな残酷なことが起きる理由を知りたいと思いました。
◇アッシリア人の村で
さて、イラク北のモスルに行った時、アッシリア人の村を訪れたことがあります。大きなキリスト教会がありました。イラクは、紀元前数千年前からアッシリ人などが住んでいる多民族国家です。
現在、アラブ人の人口が一番多く、クルド人がそれに次いでおりイラクの北東部は、クルド自治区になっています。私は2006年2月、イラクのクルド自治区に行き、逮捕されている武装勢力のメンバーに会って、武装闘争をした経緯やその意味について訊きました。
当時、この取材を公開するチャンスはありませんでしたが、この武装勢力が進化し「イスラム国」となったので、その意味を検証するため、部屋の片隅に埋もれていた取材テープを取り出し編集したものが、「イスラム国」前史です。
この作品を見ていただいた後、2006年以後、武装勢力がどのように「イスラム国」となっていったのかをお話して、アルカイダやイスラム国とは何かを分析したいと思います。
(セイディー イスラム国前史)を観ました。
◇イスラム国の誕生
ご覧いただいたのは2005年までに逮捕されたイスラム過激派組織の戦闘員の証言です。
最初の、アブドラ・ラフマンは、クルド人で、イラクでイスラム主義組織が誕生した経緯を証言しています。
カイザン・ゼダンとアマー・サバ・アフマドは、アラブ人でイラク戦争後、アラブ人たちが、イスラム主義組織に、参加した経緯を証言しています。
イラク旧政権の兵士たちが、職がなくなり武装組織で働くようになったことや、貧困がテロ活動の主要な原因で、過激派はイスラム主義を標榜していますが、イラク人にとって、それは口実でしかないと話しています。
イラクは、サダム政権時代、ムスリム同胞団など宗教的な政治政党が厳しく禁止されていたので、イスラム主義運動には馴染みがなくしっくりこない人が多いようです。
◇米軍による「イラク覚醒評議会」の成功
これは、2006年の取材ですが、彼らの証言は当時のイラクの空気を良く表しています。
カイザン・ゼダンとアマー・サバ・アフマドは、自分たちのした行動を反省していますが、これは彼らだけの思いではありませんでした。武装勢力が跋扈しているファルージャなどでは、地元の部族などを中心に、アルカイダに反対する動きが生まれました。
米軍は、反米武装闘争に参加していた部族などに、賃金を払って「イラク覚醒評議会」という治安機関をつくり、アルカイダ系武装勢力と戦わせました。もともと住民が武装勢力に参加した大きな理由は仕事がないことだったので、米軍は、アルカイダと戦うという仕事を提供したわけです。これは成功し、その後、アルカイダなど過激派武装闘争は、みるみる沈静化していきます。
ザルカウイは、米軍だけでなく、イラク人シーア派を攻撃し、スンニとシーアの宗派間の抗争を生み出し、スンニ派住民を味方につけて戦うという戦術を取りました。2006年は、宗派間闘争がピークになった時で、イラクボディカウントによれば、2006年に29,400人、2007年は25,968人の住民が殺害されました。しかし、「イラク覚醒評議会」の活動などにより、4年後の2010年には、イラク人の死者数が4.116人にまで減少します。
2006年6月、ザルカウイが米軍に殺害されました。その後、ザルカウイの組織「イラクのアルカイダ」は「イラクのイスラム国」と改名しましたが、イラクでの活動が困難になったため、シリアでも活動するようになりました。
◇マリキ政権に対する反対運動そしてISISの登場
2013年4月、「イラクのイスラム国」のリーダー、アブー・バクル・アルバグダディは、シリアで活動するアルカイダ系組織のアル・ヌスラ戦線と統合し、イラクとシャームのイスラム国(ISIS)、別名イラクとレバントのイスラム国(ISIL)に名称を変更しました。
この2013年、イラクでは、スンニ派住民による、反政府運動が再び活発になりました。
ファルージャで取材していた時、私はファルージャ総合病院に行き、ラフィ・アル‐イサウイ院長にインタビューしたことがありました。
彼は、温厚で理性的、住民に対する思いやりが強く感じられる院長でしたが、その後、政治家になり、イラクの大蔵大臣に就任しました。ところが、彼がアルカイダの手先だと、ヌーリ・マリキ首相に讒言するものがいて、マリキ首相は、イサウイ氏に、辞職を勧告します。
さらに2012年12月19日、イサウイ氏の防衛スタッフ10人が逮捕される事件も起きました。これらの事件を、シーア派主導の政府からの差別だと感じたファルージャ住民は12月21日、金曜礼拝の後、逮捕を非難し、マリキ首相の辞職を要求する抗議活動を始めました。
抗議は、ファルージャから、他のスンニ居住地区全体に拡大し過激化。年が明けて2013年1月25日、ファルージャで、投石する住民に警官が発砲、7人が射殺され、70人が負傷する事件が起きたので、住民は、2月22日、マリキ首相の退陣を求める数千人のデモを行います。
それに対して、シーア派居住地区で、スンニ派市民に対し政府が後ろ盾となった攻撃が発生、宗派間闘争が再燃しました。イラクボディカウントによれば2013年は9.144人、2014年は17.073人が死亡しました。
この混乱の中ISISが登場します。2013年12月30日、治安部隊は、ファルージャ西・ラマディの反政府運動キャンプを排除しましたが、4日後の2014年1月3日、ISISの戦闘員が、ラマディに現れ治安部隊100人以上を殺害。
次の日には、ファルージャを掌握しました。6月6日、ISISの数百人規模の戦闘員がモスルに現れ、10日までに、政府庁舎や警察署、軍基地、空港などを制圧。モスルからバグダッドに向けて南下、6月29日、ISISのアブー・バクル・アル‐バグダディが、自分は、イスラム教徒の指導者「カリフ」に任命されたとして、「イスラム国」を樹立すると宣言しました。
この後、欧米のジャーナリストやNGOを斬首する映像が公開され、今年、二人の日本人も犠牲になりました。
◇自殺攻撃と外国人
なぜ、「イスラム国」が台頭したのでしょうか? もともとイラクの政権が、米軍の侵略を利用した亡命政治家による傀儡政権から始まったという根本的な問題や、マリキ首相の政治的な稚拙さがありました。
しかし、それと戦うために、ファルージャ総合病院の院長のように民主的な選挙で政権内に入るという手段をとらず、イラクのアルカイダやイスラム国のような残忍なやり方をする過激な組織に、なぜ人々は参加するのでしょうか?
私は、そういう疑問を持ったので、武装勢力メンバーを取材しましたが、すでにご覧になったように、イラクのアラブ人たちは、経済的な理由で活動に参加したと証言しました。
しかし、これと矛盾する事実が、いくつかあることに気が付かれていると思います。
例えば、アルカイダの典型的な戦闘手法は自殺攻撃です。金銭目当てで戦闘に参加した場合、死んでしまったら、もらった報酬はどうなるのでしょうか?自殺攻撃が、経済的な理由によって行われていると仮定すると、いくつかの疑問が生まれます。
さて、自殺攻撃には不可解な事実がありました。
イラクの元治安担当者によれば、自殺攻撃を試みた戦闘員の手が車のハンドルに縛り付けられていて逃げらないようにされていた事件があったそうです。
また、ある戦闘員は、「爆弾を積んだ車をターゲットの場所に置いて逃げ帰る」という約束で作戦を行いましたが、車を降りて逃げようとした時、突然爆発し負傷したと自白しました。騙されて車をターゲットの場所まで運転させられ、逃げる前に、リモートコントロール爆弾のスウィッチが押されたというのでした。
このようなケースは、実行犯がイラク人の場合だけ報告されており、外国人戦闘員が、手をハンドルに縛り付けられていたり、逃げ帰る約束をしていたりした事例はなかったといいます。イラク人戦闘員と外国人戦闘員は、自殺攻撃に対する状況が違うようです。
私が、イラクに行っていた2003年から2004年、たくさんの自殺攻撃が行われていました。病院に行くと、犯人が生き残り入院している事例があり、ドクターに犯人について訊くと、担当医師は「本人はイエメンかどっかの外国から来たと言っていますが、よくわかりません」と答えました。
自殺攻撃をしようとした車両が発見され、外国人戦闘員が逮捕されたというニュースもありました。
自殺攻撃は、多くの被害者を生むので、「こんなことはイラク人にはできない。外国人がイラクを破壊しに来ている」と非難する住民にも数多く会いました。
◇外国人戦闘員の実態はどうなっているのか
外国人戦闘員に関して多くの謎がありましたが、彼らについては、ほとんど情報がなく、闇の中に隠されていました。
ところが、外国人戦闘員の実態の一部が判明することになります。2007年9月11日、連合軍は、イラクの北西、シリア国境10マイルにあるシンジャールで、「イラクのアルカイダ」の根城となっている家を急襲しました。そして、イラクに流れ込む外国人兵士およそ600人を詳細に記録した書類が発見されたのです。
これが、発見された書類の一枚ですが、このような書類が約600枚押収されたそうです。これはシンジャールレコードと名付けられ、これにより、初めて、イラクで活動する外国人戦闘員の統計的な研究が可能になりました。
この記録で浮かび上がった「イラクのアルカイダ」の外国人戦闘員を分析した論文を、米国の複数の研究機関が公開しています。
●年齢
シンジャールレコードによると、外国人戦闘員の平均年齢は、24から25歳。アフガニスタンで戦った志願兵=ムジャヒディンの66,45%は、33~42歳で、18,09%が、43~52歳だったとされるので、ザルカウイなどの指導者以外、80年代にアフガニスタンで戦ったムジャヒディン自身が、2000年代のイラクに現れたわけではないことがわかります。
●出身国
戦闘員の出身国を見ると、記録された戦闘員576人のうちサウジアラビアが最も多くて、237人の41%。リビヤが、それに次ぎ111人で19.2%。シリア、イエメン、アルジェリア、モロッコ、ヨルダンと続き、フランス人⒉名、スウエーデン1名の記録がありました。
●職業
シンジャールレコードには、156人について、その職業が記載されていました。
42.6%の67人が学生で、5人が教師、3人が医者、4人が技術者、その他には、少数の行政関係者、ビジネスマン、労働者、軍人、警官、宗教関係者などがいました。
●ジハード(戦闘)コーディネーター
また、シンジャールレコードには、152人について、彼らをイラクに向かわせるよう母国でオルグした人物の記録がありました。
それによると、最も多いコーディネーターは、アラビア語でイフワーンと記録されていました。アラビア語のイフワーンは、兄弟たちという意味ですが、必ずしも血族の兄弟を意味せず、信心深いムスリムや聖戦組織も意味すると言うことです。
●イラクでジハードするようオルグした人物
イフワーン=兄弟たち 52人で33.5%
友人 45人で29%
近親者 11人で7.1%
隣人 5.8人で5.8%
インターネット 6人で3.9%
仕事 6人で3.9%
知人 5人で3.3%
学校 4人で2.6%
メッカ 3人で2%
モスク 3人で2%
他 8人
◇戦闘員を送っている人たちは誰か?
「イフワーン=兄弟たち」が最も多いジハードコーディネーターだというのは、イラクへジハードに向かわせるよう扇動する組織や仲間がいることを推測させます。
1980年代に世界中からアフガニスタンに集まったムジャヒディンは、3、000から4、000人だとされますが、帰国して国際的なネットワークをつくり、イスラムがからむ紛争に戦闘員を送り込むネットワークをつくりました。
それが、イラク戦争においても、子供の世代を扇動する機能を果たしているとみる研究者がいます。また、イフワーン=兄弟たちを、仲間つまり社会的な人間関係とみて、モスクやメッカなどの純粋に宗教的な理由が6人と極端に少ないことに注目する研究者もいます。
予想外なのは、インターネットと記した戦闘員が、たった6人で少ないことです。アルカイダは、ネットを利用して運動を宣伝しています。しかし、それは、人間的な接触による宣伝や運動を補完する役割を果たしているだけのようです。
●シリア人コーディネーター
シンジャールレコードには、戦闘員がイラクに来たルートも記録されています。彼らをイラクに連れていくシリア人コーディネーターが95人いて、そのうち53人の名前が記載されています。
そして、サウジアラビア人戦闘員46人が、平均2.535ドルのコーディネート料を支払ったと記録されています。しかし、それ以外の戦闘員の場合、コーディネート料は500ドル以下の場合もありました。
●献金
最も驚くべき発見は、外国人戦闘員が、イラクのアルカイダに現金を献金しているという事実です。149人の外国人戦闘員が献金していました。
サウジアラビアの69人(237人中29.1%)の平均献金額1、088ドル(.20~16054ドル)
リビヤの 24人(111人中21.6%)の 平均献金額130ドル(20ドル~400ドル)
モロッコの 12人(36人中33.3%)の 平均献金額206ドル(20ドル~829ドル)
シリアの 10人(46人中21.7%)の 平均献金額70ドル(2ドル~400ドル)
イエメンの 10人(44人中22.67%)の 平均献金額178ドル(100ドル~680ドル)
チュニジアの 8人(33人中24.2%)の平均献金額1、288ドル(36ドル~7、674ドル)
アルジェリアの 6人(41人中9.8%)の 平均献金額311ドル(88ドルから855ドル)
●イラクのアルカイダの資金源
外国人戦闘員からの献金が、「イラクのアルカイダ」の最も大きな収入だと判明しました。
組織の資金調達先
戦闘員からの寄付
100,923 71,3%
外国からの送金
24,657 17,4%
地元からの寄付
15,948 11,3%
総収入141、529 100%
アルカイダは、サウジアラビアや湾岸諸国からの資金で、アフガニスタンで活動しました。そして、イラクで、ザルカウイは、油の横流しや誘拐などの違法なビジネスを主な資金源していると報じられていました。
しかし、シンジャールレコードでは、外国からの送金や地元で入手する金額は合わせて30パーセント未満で、資金の70%以上が、外国人戦闘員の献金だと記録されていたのです。
●自殺攻撃の実態
自殺攻撃についても記録されていました。
394人の外国人戦闘員のうち、212人(56,4%)の任務は自殺攻撃とされていました。
2006年8月から2007年8月までに394件の自殺攻撃があり、16、000人の犠牲者が生まれました。
もし、シンジャールレコードの212人が実際に任務を遂行したとすれば、これは、この時期の実行犯54%分の記録だったことになります。そして、約333人の戦闘員は自殺攻撃候補者と記されているので、シンジャールレコードの84%が自殺攻撃要員です。
そして、寄付をした戦闘員の70.5%が、自殺攻撃を任務としていました。寄付をしたものは、寄付をしなかった戦争員よりも自殺攻撃をする割合が高いとシンジャールレコードは記録しています。
自殺攻撃は、強制的に割り当てられる任務というより、むしろ寄付をし、志願して行う任務のようです。なぜ、自殺攻撃は、それほど人気があるのでしょうか?
◇シャヒード=殉教の思想~自殺攻撃の思想を検証する
アルカイダ誕生までさかのぼり、その思想を検証してみました。
アブドラ・アッザーム
1967年6月5日、イスラエルとエジプト、ヨルダン、シリアとの6日間戦争開始。
イスラエルはシナイ、ガザ、ゴラン高原、西岸とエルサレム旧市街を占領。占領地からパレスチナ人の脱出が始まりました。
ヨルダンに向かう難民の中にアルカイダの思想を生み出すことになる人物がいました。
アブドラ・アッザームです。彼は、パレスチナのヨルダン川西岸近くの村で1941年に生まれ、18歳の時、ムスリム同胞団に加わりました。
1963~1966年シリアのダマスカス大学でシャーリア法を学び、イスラム学者となりました。
大学卒業後、故郷の村で、イスラムを教えたり、モスクで説教したりしていましたが、6日間戦争後、家族と共に難民となり、ヨルダンに来ます。ヨルダンで、彼はパレスチナ難民の政治組織PLO傘下で、対イスラエル抵抗運動を戦いました。
1968年~1969年、PLOの戦闘部隊は、ヨルダン当局と繰り返し衝突するようになります。1970年9月、ヨルダンのフセイン国王は、王国を倒そうとするPLOを中心とした暴動を鎮圧。パレスチナ人難民キャンプからPLOを、国外追放しました。
この事件は「黒い9月」として知られています。
アッザームは、ソ連に支援されたマルキスト指導下のPLOの闘争に幻滅。国境を越えたイスラム教徒が団結して戦う反植民地闘争を構想していきます。これが、ハマスや、アルカイダの思想の核になっていくのです。
彼は、エジプトに行き、カイロのアズハル大学でイスラム学の研究をつづけ、1973年、アズハル大学からイスラム法学の博士号を授与されます。
彼は、1978年から、サウジアラビア・ジェッダのキング・アブドラ・アジズ大学で講義をするようになりました。この大学に、ウサマ・ビン・ラディンが在籍し、彼の説教や講義に耳を傾けていました。
1979年12月、ソ連がアフガニスタンを侵略。多くのムスリムがアフガニスタンに向かい反ソ連ジハードが開始されます。
サウジアラビア政府は、豊かな石油収入を、1962年から、国教であるワッハーブ派の布教活動に使っていました。そして、1979年のソ軍によるアフガニスタン侵攻が起こると、アフガニスタンのムスリムを支援することを決めました。
1980年、アブドラ・アッザムは、パキスタンに移住。世界的布教活動の一環としてサウジアラビアの資金で前年に作られたばかりの「国際イスラム大学」で、教鞭をとりました。彼は、すぐに、ソ連と戦うためアフガニスタンに来たアラブ人戦闘員を采配するアラブ・アフガニスタン事務所=マクタブ・カーダマをペシャワールに創立します。
ウサマ・ビン・ラディンは、1981年、大学を卒業しパキスタンに来て、アッザームと再会。ビン・ラディンは、サウジアラビアからの資金の窓口となり、アッザームの組織を助けました。その額は、年間約6億ドルに達し、特に、ビン・ラディンに近いサウジの個人事業家からの献金が多かったとされます。
1989年、2月15日、最後のソ連兵がアフガニスタンから退却しました。ソ連のアフガニスタン撤退後、アブドラ・アッザームは、「アフガニスタンは、始まりに過ぎない。
ムスリムの土地を守ることは各人のもっとも大切な義務だ」として、アフガン戦争に参加した元志願兵たちに、「ソ連の撤退で戦いは終わらず、これからパレスチナをはじめ世界中で迫害されているムスリムのため戦うことが義務だ」と訴えました。
アフガニスタンに来ていた志願兵=ムジャヒディンは、3、000から4、000人だとパキスタンの諜報当局は推定していますが、これ以後、世界各地のムスリムの紛争に、世界中からムジャヒディンが結集し、ムスリムの権利を守るため戦うようになりました。
アッザームは、グローバルジハードというアルカイダの思想を作り上げたのです。
そして、彼は、ムジャヒディンの感受性に訴えて扇動する様式を作りました。
◇シャヒード=殉教の美化と定型的扇動表現の確立
アッザームの最も人気のある著作は、ジハード戦死者の遺体を香りのする殉教者と表現したり、ムジャヒディンを助ける天使の奇跡を描いたりしたものだといいます。
死を美化し幻想的な世界として表現したのです。
彼は、アフガニスタンでムジャヒディンが死ぬ場面を、
「君の芳しい血が流れ出した。君の体に触ったもの、君の血のしずくの香りをつけたもので、芳しい芳香を鼻に満たさなかったものはいない。きみは、モスレムの名誉が害されるのを、ムスリムの支えが弱まるのを、ムスリムの勝利が踏みつけられるのを、放っておけなかった。君はムスリムが屈辱に遭うのを座視できなかった。そしてきみはアラーのもとへ着実に進んだのだ」と描きました。
殉教者の血が芳しい芳香を漂わせるという表現を比喩ではなくて、現実だと信じる人も多いようです。現実と空想を区別しない、非科学的で宗教的な思い込みを利用して、アッザームは、人々にジハードを扇動していきます。
戦闘の戦死者をシャヒード=殉教とアラブ人は呼びますが、アッザームは、「シャヒードは、神からすべての罪が免罪され、天国で70人の美しい処女を与えられる」というハディース=預言者ムハンマドの言行録を引用して殉教を讃えました。
「イスラム国」のバグダディも、「天国に住むことができる」と人々を扇動しています。その様子は、さきほどお見せしたイスラム国前史でご覧になったとおりですが、これが、自殺攻撃を、殉教として理想化し洗脳するための定型的なレトリックとなっていきました。
1989年11月24日、アッザームは、ペシャワールで、父と兄弟と一緒に金曜礼拝に向かう途中、車を爆破され暗殺されましたが、彼の思想と扇動は世界中に広がっていきました。
1996年、ウサマ・ビン・ラディンは、「シオニスト・十字軍」同盟に対して宣戦布告し、911への道を歩んでいきます。
イラク戦争により、アッザームの死を賛美する思想に洗脳された世界中の若者が、組織に献金し自殺攻撃をするため戦場に向かうようになりました。
外国人戦闘員が実際は、どのような人物か知りたいと思い、ネットで調べてみましたが、ほとんど無く、ようやく、シャルクアルワサトという報道機関の記事を見つけました。
サウジアラビアの大学生、アブドラ・アル‐ラミヤン(写真上)と高校生のムハンマド・ラシュディ(写真下)の二人は、イラククルディスタンに入国しようとして、2003年9月逮捕されました。
アルトシュ副警察署長によると、二人は、有効な身分証明書を持たずトルコからクルディスタンに入ろうとしたそうです。
二人は、サウジアラビア当局からテロリストとして指名手配されており、イラク人に成りすまし、偽の名前を名乗っていました。しかし、イラク人とは違う方言を話したので、すぐ見破られ、「イラクにジハードのため来た」ことを白状したそうです。
アブドラ・ラミヤン24歳は、取材した記者に、親友のムハンマドと一緒に、イラククルディスタンに観光に来たと言いました。
「二人で、サウジアラビアからヨルダンを経てシリアに行き、イスタンブールから西アナトリアのディヤルバクルを観光旅行していた。イラクのクルディスタン国境を越えた時、逮捕された。2.500ドル持っていました」と言いましたが、話しているうちに「イラクの友人を訪ねてきた」と証言が変ったそうです。
彼は、「リヤド近くのマナーから来た。家族が4回、刑務所に面会に来ていて、周期的にお金を送ってくる」と言いました。ところが、おかしなことに、アルトシュ副警察署長は、「サウジアラビア人拘留者に面会に来た人はいない」と、彼の言ったことを否定したそうです。
もう一人のテロリスト容疑者、ムハンマド・ラシュディとのインタビューは、より緊張したものだったそうです。この24歳の学生は、攻撃的で大声で怒鳴ったというのです。
彼は部屋に入ると「お前は誰だ?」と言ったので「記者です」と答えると「ジャーナリストは嫌いだ。放っておいてくれ。俺はお金を持っているから、石鹸も髭剃りクリームなど必需品がなんでも買えるし、刑務所にいるのでクルド語も勉強できた。クルド料理も食べられる。クルド人の役人は、二三日後に釈放すると約束した」と述べました。
しかし、まだ、クルド自治区では、テロリストを裁く法律が整っていないので公判が開かれず、クルド当局は、彼らを釈放する予定がないそうです。
記事は、クルディスタンに来たテロリスト容疑者の言動の異様さ、ノー天気さをリポートしています。彼らは、現実を正しく理解できない未熟な若者に見えます。
合理的な思考のできない若者たちが、アッザームの作り上げたシャヒード=殉教という宗教的幻想に酔ってイラクに集まり、自殺攻撃を実行しているのかもしれません。
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